食べるのは好きではないけど概念が美味しい食べもの、というのがある。
例えば、私はカレーが好きじゃない。
味を美味しいと思ったことがないし、辛いものが苦手だからそもそも避けている。
でも、カレーは日本人の国民食と言われる程でカレー好きな人は多い。
ドイツでもカレー粉をかけたソーセージであるカリーブルストが大人気だそうだ。
実際私の周りでカレーが好きじゃないと言っている人間は数える程しかおらず、大半の人は外食に行ってもカレーという文字に惹かれ、自分でも作りやすいのについ注文してしまうという人も多い。
自分と他人つまり外界との矛盾が生じると、感情の齟齬という捻れが生じてくる。
そうすると一般理解「カレーは美味しい」と自分の中での真理「カレーは美味くない逃げろ」がねじねじに捻れ、カレーと聞くと「(自分にとっては違うが)美味しい食べもの」という概念が爆誕する。
「美味しい」という感情は私もよく知っている。
美味しいものを食べた時の幸福感と欲を満たした達成感によって、嫌なことの記憶が一口につき50秒分くらい吹っ飛ばせると信じている。
ねじねじに捻れた概念に美味しいが含まれていると、例え自分にとっては違っても頭が「それは美味しいものです!」と認識するようになる、というのが「概念が美味しい」の生い立ちだ。
私には、概念では美味しい食べものが結構たくさんあって、他にも卵(ゆで卵など卵の味がダイレクトに伝わってくるものが該当し、ケーキの一材料程度などであれば大丈夫)やチョコレート、ピリ辛などがある。
ネギくらいになると、私の周りにもあんまり好きじゃないの…と長年の秘密を打ち明けるように共感を示してもらえることもあるけれど、上記のものたちを愛する人たちは圧倒的に多く、美味しい概念が爆誕しがちである。
この概念、自分にとっては美味しくないのに頭が美味しいって反応するのやだなーと受け取られることもあるかもしれないが、私の感性は単純で「誰かが喜んでる+概念が美味しい食べものの記憶によって美味しい気持ちが想起される」ことによって嬉しくなってにっこりする。要は幸せのお裾分けを全力でもらいに行ける。
例えば友達が最近食べた美味しいチョコレートケーキについて熱く語っているとする。
私はチョコレートケーキを実際に美味しく食することはできないが、チョコレートは概念が美味しいので目の前の友達が幸せそうに語れば語ってくれる程美味しい気持ちがグングン想起される。そんなうめえもの食ったのか!ええなぁ!!となる。
ここで友達が私もチョコ好きなのかなと思ってぜひ食べて!と言われると夢から醒めてテキトーに頷いておくことにはなるけれど、ちょっとこの前美味しいもの食べたの語らせて!の思いを全力で受け止め共に味わうことができる私ちょっといいななんて思っていたりする。
先日魚介の美味しいお店でご飯を食べていたところ、お隣さんの注文が聞こえてきた。
「ご飯のセットで、一緒にカニクリームコロッケもお願いします」
何それーめっちゃ美味しいじゃーんと心の中でブンブン頷いた。尚カニクリームコロッケを私は実際に美味しく食べることはできない。
日々こんな調子で楽しく過ごしている。
実際に味を想像すると激渋な顔をすることになるものの、概念に留まることができれば可能性は無限大。私にとってまずい食べものなど存在せず、想像によって美味しいものに囲まれた幸せを十二分に味わい尽くせる。
ちょっと変かもな、とは思いつつ、自他ともに認めざるを得ないやばい食い意地で死ぬ最期の瞬間まで美味しい思いをし倒すべく、いつだって美味しい食べものに想いを馳せながら生きている。幸せやー。
くまふくでした🐻
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